あの頃おめはスゴがった ~県内市町村の全盛期・黄金時代 第2回:県央編

注意

今回はじめてこのシリーズを読まれる方は、最初に第1回:県北エリア編をお読みになることをお勧めします。

特に前半部分に記載した「調査の目的」や「選考基準」がわからないまま読み進めると大変危険です。

県北には全く興味がないという方も、上記の部分だけは必ずお読みください。

第2回:県央エリアの全盛期・黄金時代

県内全市町村の全盛期・黄金時代を独断で決めてしまおうという強引この上ない珍企画『あの頃おめはスゴがった』。
第2回となる今回は県央エリアが対象です。

県央エリア編をはじめるにあたって

おかげさまで第1回の反響も上々で、みなさんからいろいろなご意見・ご感想をいただきました。
当初はもっとごじゃっぺ路線で行こうと思っていたのですが、実際に内容を考えてみると、あまりおちゃらけで決めてしまうのも難しく、思ったよりも真面目な内容になってしまいました(苦笑)。

でも、それはそれでいいでしょう。「まちの歴史」を知る機会って意外と限られていますから、このような「ライトな読み物」を通して、まちに興味を持ってもらえるきっかけづくりができれば十分成功だと思うんです。

第1回目の県北エリア編は、初の試みということで、どうやって全盛期を選ぶか非常に悩みました。
もちろん最後は独断で決めてしまうわけですが(笑)、ぜひみなさんにもこの悩みを共有してほしい・・・といいますか、一緒に考えてもらえたらと思います。
そのために今回は全盛期の候補をなるべく「複数」提示するようにしますので、「私ならこっちを選ぶ」とか「いやそのままでいい」とか「こういうのもあるのでは?」など、気軽にコメントください。
全盛期とはよべないまでも、「今じゃ想像できませんが、実はこんな時代もあったんですよ」的な話も大歓迎です。

みなさんからいただいた意見によって、後で全盛期がくつがえることもあるかもしれません(笑)。

といいますのは、まだこれは構想段階ですが、この内容を含めた本(第3弾)を出版したいと考えています。書籍化にあたっては、webの内容をそのまま転載するだけでは面白くありませんから、追加・修正を加えることになります。
ですので、ここで決められた全盛期は実はまだ「仮」の段階です。
今後内容をブラッシュアップして、書籍化するときが本番だと思っていますので、みなさんもそのつもりでどんどんコメントください。

水戸市

水戸市は現在も県庁所在地として、茨城の中心的な都市ですが、本格的に歴史の表舞台に登場するようになるのは江戸時代からです。その前に常陸国を支配していた佐竹氏が常陸太田を本拠地としていたというのは、第1回の県北エリア編で述べたとおりです(ただし、「小田原の役」の後は水戸に居城を移しています)。

したがって、水戸の全盛期は江戸時代~現代の間で決めてよいか思いますが、やはり礎を作った水戸徳川家の全盛期を水戸の全盛期とするのが、最も妥当でしょうね。

では水戸徳川家は、誰の時代が全盛期だったのでしょうか?
候補となるのは2人で、二代藩主の「水戸黄門」こと徳川光圀と、9代藩主の徳川斉昭です。
他に、候補として、水戸から唯一将軍になった徳川慶喜を挙げてもよいかもしれませんが、徳川斉昭の死後、内紛が起きて自滅ともいえる状態になり、明治新政府に参加できなかったことを考えると、慶喜の時代が全盛期というのはちょっとありえませんね。

光圀の業績として最も知られているのは「大日本史」の編纂です。
水戸学」とよばれる学問として発展し、幕末の志士に大いなる影響を与え、これが明治維新の原動力となりました。
一方の斉昭は藩政改革を行い、われわれにも馴染み深い偕楽園や藩校「弘道館」をつくりました。水戸学の影響力の大きさという点では斉昭の頃が全盛期といっていいでしょうね。

ただ、やはり人気・知名度においては、光圀のほうが圧倒的に上ですね。
ハッスル黄門などのキャラクターなどを見ても、水戸黄門以外のものがモチーフになることはほとんどありません。
財政面でも斉昭の頃は非常に苦しかったそうですし、まあその原因を作ったのは光圀だといわれちゃうとアレなんですが(笑)、総合的に考えて、水戸市の全盛期は徳川光圀の時代でよいかと思います。

光圀は好奇心旺盛?な性格だったようで、ラーメン、餃子、チーズ、牛乳酒などを日本で初めて食べたといわれています。
また、靴下を最初に履いたのも光圀ですね。

では最後に、光圀の時代でいつを全盛期にするかを決めましょう。
ここはわかりやすさと後世への影響を考慮して、1654年の大日本史編纂を開始した年にしたいと思います。

  • 水戸市の全盛期:1654年 大日本史の編纂を開始

余談になりますが、今年(2010年)の10月16日には映画「桜田門外ノ変」が公開となりましたね。
茨城を舞台にした映画のヒット作といえば「下妻物語」が有名ですが、「桜田門外ノ変」がヒットすれば、平成に入っての水戸の全盛期は2010年で決まりそうですね。
すでにコミケ(コみケッとスペシャル5in水戸)が成功をおさめていますし、2010年は水戸の存在感を県内外に示した元気な年だったと後から振り返ることになるといいですね。

城里町

県北の常陸大宮市や那珂市と並んで全盛期を決めるのはなかなか難しいまちといえそうですが、過去の歴史などを調べてみたところ、3件の候補が挙がってきました。

まず、一つは城里町の特産として、最も有名な「古内茶(ふるうちちゃ)」。
さしま(猿島)茶、奥久慈茶と並ぶ、茨城三銘茶の一つです。
古内茶の成立には徳川光圀が大いに関わっています。
元々清音寺というお寺の境内にしか栽培してはいけないという決まりがあったこのお茶を、もっとたくさんの人に飲んでもらったほうがよいと助言したのが光圀で、この光圀の助言がなければ三銘茶にはなっていなかったかもしれません。

次の候補は、日本初の女性小学校教師である黒澤止幾(くろさわ とき)
城里町の出身で、1873年に日本初の小学校女性教師となりました。

最後は、1971年(昭和46年)に全線が廃線となってしまった茨城交通茨城線(御前山線)
昭和50年代以降に生まれた人は、あまりイメージが沸かないと思いますが、かつては水戸市の赤塚から城里町まで鉄道が通っていたんですね。
終点の御前山まで開通したのは1927年(昭和2年)のことです。

まちの全盛期という視点でいくと、古内茶か御前山線のどちらかになるでしょうか。

現在への影響という点では古内茶に軍配が上がりますが、「えっ!ほんとにここに鉄道が走ってたの?」的なギャップの大きさを評価して、城里町の全盛期は終点である御前山駅まで茨城交通茨城線が開通した1927年(昭和2年)に決めたいと思います。

県内に廃線は数あれど、赤塚から御前山まで鉄道があったというのは「へぇ」的インパクトが大きいと思うんですよ。
城里町といいますと、ホロルの湯ふれあいの里などの施設があり、私も何度か訪れていますが、鉄道というイメージがまったくなかったので、鉄道が走っていたという話を初めて聞いたときは正直驚きました。
実際、廃線の話になると、詳しい方からは必ずこの鉄道の話が出て盛り上がるというパターンを何回も経験していますし、このギャップの大きさは万人共通なのかなと思います。

ところで、終点の御前山駅についてですが、名前は御前山ですが、当時の御前山村(現在の常陸大宮市)ではなく、桂村(現在の城里町)にありました。

  • 城里町の全盛期:1927年(昭和2年) 茨城交通茨城線が御前山駅まで開通

大洗町

大洗は茨城でもっとも観光がさかんなまちの一つで、大洗という名称は県外でも結構知られていますね。
その大洗の代名詞といえば、「」です。
特に夏の海水浴客数は県内でも断トツのナンバーワン。
北関東道が2011年に全線開通すれば、栃木からだけでなく、群馬からも海水浴客が増え、もはや「茨城の大洗」ではなく「北関東の大洗」的な位置付けになるといっても過言ではないでしょう。
それはつまり、栃木でも群馬でも「海水浴といえば大洗」になるということに他なりません。

そんな大洗ですが、やはり全盛期を考える上でも海はかかせませんね。
大洗には大きく分けて2つ(正確には3つ?)の海水浴場がありますが、人気・規模ともに県下ナンバーワンとなっているのが「大洗サンビーチ」です。

だったら「大洗サンビーチ」という名前が使われ始めた年を大洗の全盛期にしちゃえばいいや!と考えたのですが、いつから大洗サンビーチになったのかネットで調べてもわかりませんでした(苦笑)。

大洗町観光情報のページに「まちの歴史」という内容がありまして、ここで「大洗サンビーチ」の名前が初めて登場するのが1992年(平成4年)。

しかし、ここで登場しているのはなんと海水浴場ではなく、「大洗サンビーチキャンプ場」なのです。
ということは、その前にサンビーチという名称がすでに使われていたということでしょうか?
そこで過去に海水浴場に関する記述がないかを探してみたところ、「磯浜・大貫海水浴場新浜へ移設」という箇所がありました。1982年(昭和57年)のことです。

ここでいう「新浜」というのは地名(住所)ではなくて、「新しい場所(海水浴場)」という意味合いで使われていると私は解釈したのですが、これが今の大洗サンビーチなんでしょうかね?
だとすると、最初はサンビーチという名称がなく、途中からサンビーチになった。しかし、キャンプ場ができるまで「まちの歴史」にサンビーチの名称が登場しないとなると、大洗サンビーチという名称が使われはじめた年というのは、あまり大洗の歴史の中では重要ではないということですね(きっと)。
もしかしたら、キャンプ場ができたときに名前がないとまずいから、サンビーチキャンプ場にして、ついでに海のほうも「大洗サンビーチ」にしっちゃーべ!的な可能性も、(茨城の地域性を考えると)なきにしもあらずですね(笑)。

さて、困りました。サンビーチがいつのまにかサンビーチになっていたんであれば、大洗サンビーチ関連で他にインパクトのある出来事を探さねばなりません。
でもそれは意外と簡単に見つかっちゃいました(笑)。
1997年(平成9年)の大洗サンビーチが日本初のユニバーサル(バリアフリー)ビーチとしてオープン・・・これでしょ。
ユニバーサルビーチというのは障害を持った方でも不自由することなく、使用できる海水浴場のことで、段差をなくしたりして車椅子での移動を可能にし、トイレや更衣室も車椅子で入れるように広くなっています。

もしかしてこのときに「大洗サンビーチ」という名称になったんですかね?んー、結局わかりません(苦笑)。

ところで、大洗には海水浴場以外にも観光スポットと呼べる施設がたくさんあります。
アクアワールド大洗大洗マリンタワー大洗リゾートアウトレットなどです。

なかでも年間を通じて人気が高いのが「アクアワールド大洗」ですね。
私が小学校4年生の遠足で訪れたときにはたしか「大洗水族館」という名称だったはずでしたが、2002年(平成14年)にアクアワールド大洗としてリニューアルオープンしたんですね。
でもさらに昔の歴史を調べてみると、大洗水族館になったのは1981年(昭和56年)で、その前は「海のこどもの国」という名前だったのだそうです。
この「海のこどもの国」は水族館だけでなく、夏場に営業するプールも併設されていました。
プールは大洗水族館になるときに撤去され、そのスペースは水族館として増設されたそうです。
いや~水族館にもこんな歴史があったんですね。タメになりますね(自分で言うなって)。

水族館の歴史を紹介しておいて、結局全盛期は「大洗サンビーチ」にしちゃうわけですが、やはり「まず海水浴場ありき」ですもんね。異論はないでしょう。

  • 大洗町の全盛期:1997年(平成9年) 大洗サンビーチが日本初のユニバーサル(バリアフリー)ビーチとしてオープン

笠間市

笠間市は、笠間稲荷神社の門前町、また、笠間焼きの産地としても、有名なまちですね。
笠間稲荷は日本三大稲荷の一つで、初詣の参拝客は常に県内一といえば、そのすごさがわかっていただけるでしょうか。
笠間稲荷は江戸時代に歴代の笠間藩主によって手厚く保護され、笠間稲荷単体で考えた場合、もっとも栄えたのは江戸時代かと思います。
また、もう一つの笠間のシンボルともいえる笠間焼きが始まったのも江戸時代ですね。

このことから、現在にもつながる笠間のブランドイメージの元が作られたのは江戸時代であるといえ、江戸時代の笠間藩の歴史から、笠間市の全盛期を探っていくことにしたいと思います。

さて、笠間藩の歴史を調べますと、前半はめまぐるしく藩主が入れ替わっていることに気づきます。
松平家、小笠原家、永井家、浅野家、井上家、牧野家・・・と天領の時代も含めますと、10回も藩主が入れ替わっています。
ようやく落ち着いたのは、江戸中期、1747年に牧野家が入封してからで、以後、笠間藩は明治時代まで牧野家が藩主をつとめました。

この牧野家のなかでもっとも評価が高く、名君といわれたのが3代藩主の牧野貞喜です。
貞喜は悪化していた笠間藩の財政再建のため藩政改革に乗り出し、農業振興・産業振興につとめました。
また、そのなかで陶業者に資金を提供して保護し、城内で「御庭焼(おにわやき)」をはじめました。
御庭焼とは、藩主が城内(邸内)に窯を作って焼き物を焼かせることです。

ちなみに笠間焼きが全国的に知られるようになったのは、明治初期に岐阜の行商人だった田中友三郎が江戸で販路を開拓したことによるものが大きいそうで、笠間焼きという名称を付けたのも友三郎です。それまでは「箱田焼」「宍戸焼」などと呼ばれていました。

では最後に全盛期を決めていきたいと思いますが、牧野貞喜の時代でいきますと、1809年に藩政改革を始めた年でしょうかね。
あまりインパクトはありませんが、「笠間焼き」の名称がつけられた年だと明治時代になってしまうので、やはり1809年にしておきましょう。
なんか笠間はだいぶ真面目な内容ですね(笑)。面白いネタがある方はぜひコメントください。

  • 笠間市の全盛期:1809年 牧野貞喜が藩政改革を開始

茨城町

茨城町は、県央地区では城里町と並んでもっとも全盛期を決めにくい町といえそうです。
まあ悩んでいても仕方ないので、例のごとく、全盛期となりえそうな候補をいくつか挙げてみようと思います。

まず、最近の話題からいきますが、茨城町は町内に3つのIC(インターチェンジ)があるというのは意外と知られていませんね。
北関東道の茨城町西IC茨城町東IC、そして、東関道の茨城空港北ICです。
これはお隣の水戸市、笠間市と同じ数なんですよ(スマートIC除く)。
町なのに、3つもICがあるというのは県内で唯一です。
ただし、利用者数や知名度からいって、このICができた年を茨城町の全盛期とするのは少し無理があるでしょう。

次は、城里町方式でいきましょうか。かつて鉄道が通っていた時代を全盛期とするやり方です。
実は茨城町には水戸電気鉄道線というのが通っていました。
当初の予定は水戸~石岡間をつなぐというもので、常磐線が迂回ルートだったのに対し、国道6号に沿って直線で結んでしまおうという計画だったそうです。
開業は1929年(昭和4年)で、下水戸駅から茨城町(旧長岡村)の常陸長岡駅まで。その後、奥ノ谷駅(茨城町/旧川根村)まで開通しましたが、その3年後の1936年(昭和11年)に、短い歴史の幕を閉じました。
この鉄道の残念なところは、石岡まで行けなかったところもそうですが、水戸電気鉄道線なのに電化されなかったことですね(笑)。
だから正確には電気鉄道じゃないんですよ。なんか、鹿島に行けなかった鹿島鉄道と似てますね。
ネタ的には面白いんですが、さすがに茨城町の全盛期とするにはしょぼすぎます。

そういうわけで、最後は困ったときの合併ネタです(笑)。
茨城町は1955年(昭和30年) に東茨城郡の長岡町・上野合村・川根村が鹿島郡沼前村と合併してできました。
あれ?と思った方もいらっしゃるでしょうが、旧村名に茨城という名前はないんです。
ではなぜ茨城町なのかといいますと、ここが元々茨城郡だったところからきています。その後、茨城郡は東茨城郡西茨城郡に別れ、現在に至っています(茨城町は東茨城郡)。

旧村内に茨城という地名がなかったにせよ、旧郡名が茨城だったわけですし、位置的にも茨城の中央部にありますので、茨城町という名前には特に違和感を感じませんね。しかしながら、町の規模を考えると、県名と同じ茨城を名乗れたのは、今考えると快挙なのではと思ってしまいます。
1956年(昭和31年)に合併で茨城市を名乗る予定だったにも関わらず、他からの反対にあって北茨城市になってしまったケースがありますからねぇ。いまや伝説となっている「幻の茨城市」です。

茨城市」が今後誕生する可能性は今のところ低そうですが、もっとも可能性が高いのは、茨城町が石岡市小美玉市と合併することだと思います。
以前水戸市との合併が取り沙汰されましたが、やはり水戸と合併だと水戸市にしかなりえませんよね。
それが、石岡ならば元々国府があって、茨城の発祥の地でもありますし、小美玉市は小美玉というネーミングがアレなのと(笑)、茨城空港があるので、スムーズに茨城市を名乗れそうです。
他に、笠間市(旧友部町)も小原という地名が転じて茨城になったという説があるので、参加の申し出があれば加わってもらうのも悪くないでしょう。

ただ、この話はそもそもが茨城市を作りたいという目的からスタートしていますので、なぜ合併するのかという視点が完全に抜け落ちており(笑)、私の脳内シミュレーションの域を出ていないというのは言うまでもありません。

完全に話がわき道に逸れましたが、茨城町の最盛期は1955年(昭和30年) に合併により茨城町が誕生した年にしたいと思います。

  • 茨城町の全盛期:1955年(昭和30年) 合併により茨城町が誕生

※他に茨城町関連では新種「ヒヌマイトトンボ」の発見というのもあるのですが、これは涸沼という茨城町、鉾田市、大洗町にまたがったエリアでの出来事なので、今回は割愛しました。

小美玉市

小美玉市について、県外の方から時々「かわいいネーミングですね」なんていわれたときに、「小川町」「美野里町」「玉里村」から頭一文字をとったのですよ・・・などということは言わないようにしています。世の中には言わないほうがいいこともあるのですね。

まあそんな話はどうでもいいんですが(笑)、小美玉市と言ったらやっぱり茨城空港しかないでしょう。
全盛期は基本的に過去から選ぶことになっていまして、2010年の今年を選ぶのもどうかと思うのですが、やはりこれを超える歴史的なインパクトのある出来事は過去に起こっていないと思うんですよ。

だって、日本初のLCC(ローコストキャリア)対応空港にして、日本初の開港時に国内定期便が飛ばなかった空港ですよ。
しかも、開港時に廃港の危機をすでに抱えているというオマケつき。
今年10月の羽田国際化によって、さらに苦境に立たされると思いますが、まあ、それもすべて計算のうちですから。

重要なのでもう一度言いますね。
それもすべて計算のうちですから

そうなんです。すべてが計算の範囲内で起こっているのです。
元々「首都圏防空の要」である自衛隊の百里基地に滑走路をもう一本増やすために作ったんですから、別に廃港になっても「♪ちゃーらーへっちゃらー」なんですよ。

いやそれじゃ困る、何のための税金なんだ・・・そんな声も聞こえてきますが、茨城空港は茨城県の広報戦略の最重要拠点であることを忘れてもらっては困ります。
空港という羊の皮を被った広報戦略拠点なのです。
どっちが羊でどっちが狼かわかりませんが(笑)、これにはあえて触れません。

いいですか。熱心な読者の方はすでにご存知かと思いますが、茨城県は某T京からの圧力によって、都道府県の魅力度調査で2年連続最下位にされているのですよ。
裏魅力度調査2010」という別の魅力度調査によって状況はだいぶ挽回されていますが、茨城に有力メディアがないということに付け込まれ、T京のいいようにやられているんです。
これに対する広報戦略拠点が茨城空港なのです。

わかりにくいと思いますので、具体例を示しましょう。
茨城空港が開港前から「ムダな空港だ」「税金の無駄遣いだ」とメディアで騒がれたのは、T京による情報操作だというのは茨城県民なら誰もが知る事実ですが、実はこれ、半分は本当で、半分はウソなんです。
ここだけの話、「茨城県がわざと情報を流させた」というのが真相なのです。
茨城には有力なメディアがないために、全国に情報を発信したいときにはT京のメディアがどうしても必要になります。
ですので、ネガティブな情報であるにも関わらず、あえてそれを流させることで、茨城に注目を集めようとしたのです。
でもそのためには普通の空港では話題性がありませんので、廃港の危機を匂わせ、「ムダな空港」という演出をしたのです。
なんだか茨城の県民性とは一見相容れない緻密な戦略ですが、これが茨城県民の真の実力なのです。

また、「廃港の危機」というアングルは、茨城県民にとってもドキドキわくわくスリル満点で、なくなっちゃうかもしれないから、早いところ見に行っとくべ!的な行動をうながす結果になり、茨城空港を「道の駅」化させるのに成功したことはまだあまり知られていません。

今後の茨城空港についてですが、基本戦略は「とりあえず行けるところまで行ってみっぺ」です(笑)。
つまり、存続できるうちは存続させ、そのなかで常に話題をふりまきます。
採算性が悪化するか、話題性がなくなったら、税金のムダ使いになるような悪あがきは一切せず、スムーズにリユースし、先に述べた百里基地の滑走路という本来の姿に戻してあげます。
ターミナルビルのほうは、すでに「道の駅」化に向けた取り組みが順調に進んでいますので、「道の駅 茨城空港跡(仮称)」として運用するのは簡単ですね。
まさにムダのない超エコエコな空港です!

以上、またしても私の「脳内シミュレーション」でした(笑)。フィクションですので、絶対に真に受けないでくださいね。

さて、当初の目的である小美玉市の全盛期ですが、これは2010年の茨城空港の開港でいいですね。

  • 小美玉市の全盛期:2010年(平成22年) 茨城空港が開港

県央エリアの全盛期・黄金時代 まとめ

では最後に県央エリアの全盛期を年代順に見ていきましょう。

※県央エリア全体の全盛期は水戸市の全盛期にしました。

  • 1654年 水戸市および県央エリアの全盛期:大日本史の編纂を開始
  • 1809年 笠間市の全盛期:牧野貞喜が藩政改革を開始
  • 1927年(昭和2年) 城里町の全盛期:茨城交通茨城線が御前山駅まで開通
  • 1955年(昭和30年) 茨城町の全盛期:合併により茨城町が誕生
  • 1997年(平成9年) 大洗町の全盛期:大洗サンビーチが日本初のユニバーサル(バリアフリー)ビーチとしてオープン
  • 2010年(平成22年) 小美玉市の全盛期:茨城空港が開港

なんか最後の2つ(茨城町と小美玉市)は茨城王節が冴えわたってましたね。結局、茨城王って脳内シミュレーションのほうが面白いよねぇ・・・なんてことは言わず、次の第3回も楽しみに待っていてくださいね。

ちなみにどこにするかはまだ決めていません。県南はたくさんあるしなぁ・・・どうすっぺ(苦笑)。

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